【活動報告】「記憶の継承ラボ」による長崎でのフィールドワーク報告

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「記憶の継承ラボ」では、被爆から80年の節目となる今年も8月9日に合わせて長崎を訪問し、現場の実践家の方々から長崎の被爆について学ぶ機会を頂きました。以下は、長崎でのフィールドワークに参加した環境行動学研究室D1の上官世璁さんによる報告です。是非ご覧下さい。
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 アジア・太平洋戦争から80年を迎える今年、8月8日から10日にかけて、長崎での3日間のフィールドワークを行い、城山小学校、平和公園、原爆資料館、浦上天主堂、山王神社、如己堂・永井隆記念館、長崎歴史文化博物館などを訪れることができた。昨年に引き続き、城山小学校の平和祈念式典に参加し、平和案内人の方々から話を伺う中で、「記録」として残されているものと、現地で体験することの違いを強く感じた。以下、3日間の様子を簡単に記しておきたい。

第1日目:城山小学校と平和公園
 初日は城山小学校を訪問し、平和案内人の滝川信一郎さんと山口政則さんから、「ふりそでの少女」の話や、戦後に植えられた「嘉代子桜」の由来について伺った。特に、桜の木の由来に加えて、桜木から接ぎ木した苗木を要請に応じて各地の学校などに寄贈していることと、元々の木を基に、苗木を育ててきた、という話を聞いて、「嘉代子桜」は、地域と時間の制限を超えて原爆記憶継承のシンボルになっていると実感した。つまり、今回の訪問では、昨年、初めて来たときの鮮明な衝撃とは異なり、前回見たものと今回見たものが重なりつつ、これまで見逃していたかもしれない、より精細に新たな物語へと改めて目が向くようになった。
 その後、山口さんの案内で平和公園を歩いたが、園内では80周年に向けて準備が進められており、工事や設置作業の様子から「祈念の場」が今も作られ続けていることを知ることができた。


図1. 少年平和像を紹介されている山口さんと参加者たち(筆者撮影)

第2日目:祈念式典と展示
 2日目は、平和案内人の方々の計らいで、城山小学校で行われた祈念式と慰霊式に参加することができた。児童が入場し、歌を歌い、毎月行われているという、今回で888回目を迎える式が進む様子を見ながら、式典は単なる行事ではなく、子どもたちが日常的に関わっている活動の一部であることが分かってきた。ただし、2025年8月のこの特別な日に行われた式典は、毎月の式典、さらに毎年の同じ日に行われたものとは、どこが一緒でどこが違っているのだろうかと思いを巡らせていた。
 式典の後、昨年も案内してくださった松尾眞一郎さんに再会し、松尾さんともう一人のアーティストが描いている壁画を見学した。赤や三角の形で表された絵は、強い感情をそのまま映し出しているように見え、言葉以上に印象に残った。嘉代子桜の話もそうであるが、毎年行われる式典や、壁画が提示するように、原爆記憶の継承は、単に過去のものをそのまま保存していくことに留まらず、その継承の活動に携わる広範な人々や組織の活躍と協働の中で、新たな人々による活動とその産物によって更新されつつあると言えるのかもしれない。それらを含めて継承しようとするものには、人々の物語による原爆の体験と意志が込められていると感じた。
 午後は、長崎市役所の展望フロアで開かれていた写真展「【被爆八十周年祈念】JRP長崎支部写真展『長崎の証言』」を訪れた。そこでは原爆を経験した人々の姿や、その後の活動が写真で紹介されていた。被爆後の日常の場面と、被爆当時の記録写真が並んで展示されており、「生き残った人々がその後どう暮らしたか」が伝わってきた。続いて訪れた原爆資料館では、山口さんの説明を受けながら展示を拝見した。展示室の中では、焼け焦げた瓦や衣服など具体的な遺物が並び、過去の出来事が抽象的な「歴史」ではなく、個人の生活に直結していたことを改めて理解することができた。

第3日目:遺構と長崎の街
 このように、長崎での原爆記憶の継承は、知識や事実より、「人」と彼らの物語を中心としているのではないかと思えてきた。3日目は如己堂・永井隆記念館から始まったが、永井博士の「私の骨を近いうちに妻が抱いてゆく予定であったのに」という言葉を読み、その場に立つと、書かれた文章として知っていたときよりも切実に感じられた。
 さらに、浦上天主堂では、爆風で崩れた建物が再建され、現在も地域の教会として使われている姿を見学した。また旧長崎医科大学の遺構や山王神社の大クスノキも訪ねた。とくに被爆クスノキは、被爆で幹が裂けながらも青々と葉を茂らせており、目の前の木そのものが当時を語っているように思えてきた。人が語る証言と、語らずに残り続ける木や建物は、異なる仕方で同じ出来事を伝えていると感じた。語りはその人の気持ちや記憶の揺れを含むものの、木や遺構は無言で痕跡を示し続ける。その両方に触れることで、記憶の伝わり方の多様さを改めて知ることになった。
 最後に長崎歴史文化博物館を訪れた。そこでは原爆以前の長崎が「海外に開かれた港町」であったことを示す展示が多くあり、貿易や交流によって培われた文化が紹介されていた。ここで初めて、長崎は「原爆の街」であるのと同時に、長い歴史の中で多様な顔を持ってきた街であると理解し、その独特性を知るには更なる勉強をしなければならないと感じた。

 以上のように、今回の3日間の長崎でのフィールドワークは、新しい知識を得るだけでなく、前回の訪問での経験を重ね直す時間ともなった。展示や証言に加えて、桜の木や建物といったものが語りかけてくる声に耳を傾けることで、同じ場所でも前回とは違う姿が見えてきたように思う。一度訪れて終わりではなく、二度目の訪問によって「記憶は固定されたものではなく、何度見ても新しい発見があり、自分の受け止め方によって変わっていく」ことを実感した。今回の体験は、そのことを確かめる大切な機会になったと言えるかもしれない。